思い返せば、白善燁将軍の晩年の10年に、
私が向き合う機会をもてたことは幸運でした。
下の文章は、おそらく将軍の生前最後に書かれた文章だろうと思います。
将軍のことを文章に書こうとして会ったわけではありませんが、
二時間ほどの出会いがあまりに深いものだったので
出会いの後に書かないわけにはいきませんでした。
その後、コロナの時期となり、
2020年にはソウル大学病院に何ヶ月か入院なされて面会もできず、
どっしりとした病院の前に立ってお祈りを捧げました。
将軍の戦闘、戦争のお話し、祖国に対する憂い、
百歳のその頭と胸の中にはあらゆる策略があるにもかかわらず、
安保のために使われることのない無念さ、
私の父とともに、平壌で最も優秀な学校で、
どうにかして日本に勝つために夜通し勉強したという言葉を思い浮かべると、
涙に目がうるみます。
6月25日の出会いの後に書いた文章を改めて肝に銘じ、
心をまっすぐに立て直します。

白善燁将軍とのランチ - 龍山 ドラゴンヒルラッチ食堂 2019 6 24
李承信の詩で書くエッセイ 白善燁将軍を記憶して 白善燁将軍が百歳でもお元気でおられることが嬉しい (2019年当時) 毎日来てもいいとおっしゃってくださっても、あちこち飛び回ってばかりで、たまにしかお会いできないが、6 25が近づいてくると自然と足と心が龍山の戦争記念館にある将軍の事務室に向かう。 1950年の6月25日、北朝鮮が突然韓国に侵攻するや、韓国初の四つ星将軍として洛東江の多富洞戦闘の先鋒に立ち、故郷である平壤まで昼夜歩き通して勇敢に進撃していったという何度も聞いたその話をまた聞くためだ。将軍はまだ20代だった。 父のDNAを内に感じている私は、常に亡き父に会いたい思いでいるが、ロースクールで父と同期だった崔奎夏元大統領を最後に、父を知る人がもう誰もいないようで残念でならなかった。そうしたある日、戦争記念館に事務室があるジョン・イルファ博士が白善燁将軍は父の卒業した平壤師範の出身だといって私を連れて行った。 戦争経験もなく、同期でもないので父のことは知らないとでも言われたらどうしようと心配が先立った。 ところが、父の2年後輩にあたるといって将軍は私を楽にしてくださり、あれこれと父のことを仔細にお話してくださるので、懐かしさがこみ上げてきた。将軍の記憶力はあきれるばかりで、言葉で表現することはできない。平壤師範時代の話、その後各自それぞれの道をゆくことになっても、私の父の生涯とその歴史を詳しく全てご存知で驚かされるばかりだった。 こちらから聞きもしないのに、李先生のお父さんは平壤師範のころから多方面にわたる秀才で、満州での教育と教職、ソウルでの官職、特許庁の創立、韓国初のLaw Firm 設立、国際的な活動など、あらゆる面に頭角をあらわし…と決して私の機嫌をとるためにそうしているわけではなかった。90余年も前の話を今なお生きておられる方から聞くと、物悲しくも慕わしい父の思い出につかってしまう。 今回お目にかかったときには、大変遺憾なお気持ちを顕にした。 言葉でそうとは言わないけれど、最近の金元鳳事件のためか、一部の誹謗中傷のせいか意気消沈してみえた。ただ心でそう感じた。日本の統治時代に生まれて勉強し、仕事もしてきたことに難癖をつける手合いは相手にする価値もないが、自らが送ってきた人生と戦闘をかえりみてのことだろうか。 「私は生涯をかけて人を救い、国を救うことに全力を尽くしてきた」 私はうなずいた。 マッカーサー将軍とともに撮った写真はもちろん、軍出身の新アメリカ大使ハリスが将軍の誕生日に膝をついて礼をつくした写真のある事務室を出て、龍山のドラゴンヒルロッジの食堂に場所を移した。 お話の途中でまた「李允模先生は秀才中の秀才で、同じく秀才の夫人と出会い、その愛の結実が李先生だ。よいこともあるだろうが、大変なことの方が多いだろう。しかし、神様がおられるからきっと報われる。そうでないとしてもそれが人生だ。それが人生だ。」とおっしゃられた。百年間の自身の人生を振り返っての言葉だろうが、父になだめられているようで、ありがたさに胸がつまった。
韓米同盟は強固であるべきですか ? ㅡ 70
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